偏愛的プレミアリーグ見聞録

クラブとサポーターにとって、希望は一択となっていました。シェイク・ジャシム・ビン・ハマド・アル・タニ氏が株式をすべて買い取ること。しかし10月14日、カタール人の銀行家はマンチェスター・ユナイテッドの経営権を取得するスキームから撤退し、「ザ・グレイザーズ」の支配は継続となりました。

悪名高きグレイザー・ファミリーが、株式の売却を検討していると報じられたのは2022年11月22日。当初、入札を検討していた8人は次々と落伍し、2023年2月には2名に絞られました。シェイク・ジャシム氏は、全株式の買い取りを希望。石油化学企業イネオスを創業したジム・ラトクリフ氏は、グレイザーが保有する67%を手に入れようとしていました。

この2人は、それぞれ魅力的なオーナー候補でした。最終的にはマンチェスター・ユナイテッドの時価総額27億ポンドを大きく上回る41億2000万ポンド（約7479億円）で入札したシェイク・ジャシム氏は、グレイザーが膨らませた銀行借り入れや未払いの移籍金など約9億7000万ポンド（約1760億円）の負債を清算すると伝えられていました。

これに加えて、新しいスタジアムとトレーニング施設、新戦力獲得、地域再生プロジェクトの資金として14億ポンド（約2540億円）を超える額を用意。クラブの価値を高く評価するからこその大胆な投資計画は、1億6500万ポンド（約299億円）の配当金を自らに振り込むオーナーのプアなクラブ経営を抜本的に変えるはずでした。

一方、子どもの頃からクラブのファンだったというラトクリフ氏は、400億ポンド（約7兆2500億円）の資産を持つ英国No.2の大富豪。F1のメルセデス、自転車ロードレースのイネオス・グレナディアス、スイスのFCローザンヌ、リーグ・アンのニースなどスポーツチームのスポンサードや運営の実績があります。

2019年にオーナーとなったニースは、5位、9位、5位、9位。成長を遂げたとはいえませんが、アーロン・ラムジー、ロス・バークリー、カスパー・シュマイケルなどプレミアリーグ勢を中心とした積極的な強化は、サポーターに評価されています。彼が経営の全権を手にすれば、カタールの投資家と同様に思い切った投資を検討するはずです。

最初の入札額を見直した2度めのエントリーは3月。さらに4月、5月と何度も修正入札が行われ、シェイク・ジャシム氏の提示はスポーツクラブに対するワールドレコードを更新しました。対してラトクリフ氏は、提案自体を部分的な株式購入にスイッチ。40億ポンドを超える6月のオファーに対して、49億ポンド超を主張したグレイザーを見て、カタール人は撤退を決定しました。

現在残っているのは、株式の25%を購入するというラトクリフ氏の申し出のみ。そんな話なら、1年前にクローズドでやりとりするだけでOKだったはずです。欧州スーパーリーグ構想を承認してサポーターを激怒させたグレイザーズは、ニンジンをぶら下げて時間稼ぎをしたかっただけなのかもしれません。

マンチェスター・ユナイテッドのサポーター団体が、グレイザー追放をめざして創設した「The 1958」は、これまでのクラブとのミーティングを「懐柔と欺瞞のために行われていた」と非難。「ボイコットこそがグレイザーやクラブのスポンサー、メディアへの強力なメッセージ」として、個別に話し合いを実施しないように呼びかけています。

これに対して、サポーター団体の代表19名が推進するファン・フォーラムは、リチャード・アーノルドCEO、ジョン・マータフFD、チーフ・オペレーティング・オフィサーのコレット・ロッシュらとの対話を継続。クラブの改革を要求する彼らは、サー・ラトクリフの株式取得について、追い風になると歓迎するのではないかと思われます。

イネオスのCEOへの株式売却が承認されたとしても、市場に出ている株をすべて味方に付けても過半数には届かないパーセンテージとなります。1年騒いだ結果として、到底納得できるものではありませんが、改革に向かう最初のステップと受け止めましょう。シェイク・ジャシム氏より過剰評価となる価格を呑んだラトクリフ氏に、敬意を表しつつ。